「リスク」
大人になればなるほど、この「リスク」を取ることを恐れるようになっていきます。
かくいう僕もそう。徹底的リスクヘッジの上、石橋を叩きながら世の中を渡り歩いている気がします。
いや、石橋を叩きながら生きるのが悪いというわけではありません。くだらない「リスク」の温床である「とはいえ」を捨てて生きようぜ、という話です。
「リスク」をかえりみず、生きている人たち
ここのところ、人生を楽しく素晴らしい生き方をしている人を見ると、一般的には「リスク」と言われるようなことを平気でやっています。
無職で海外に飛び出て、お金を集める若者。自らの身をかえりみず、信じた道を突き進む起業家。
みんな、自分で「決めた」道をなんの迷いもなく突き進むことで、結果を出しています。たとえその道が「リスク」だらけの道だろうとしても…
そもそも生きている以上、リスクを背負っている僕たち
さて、そんな「リスク」をかえりみず、素晴らしい生き様を持った人たちを見ていると、自分自身、どれだけ「リスク」というものに縛られているだろうか、そんなことを考えていました。
そもそも論なのですが、一つ気づいたとがあります。
それは、「人は生きている以上、死というリスクを“必ず”背負っている」ということ。
大地震が起きたと思えば、街中に飛行機が落ちてくる、そんな時代。
どこでどんなことをしていようが、人類が決して乗り越えられない「死」というリスクを常に僕たちは抱えています。
そう思うと、目先のことを短絡的な「リスク」で考えることって本当にくだらないなって思いました。
「死ぬこと以外はかすり傷」
座右の銘にしている人も多いんじゃないでしょうか。ほんと、死ななきゃなんとでもなるのが人生ですよ。
「とはいえ」を外した先に見える景色
でもどうしたって僕たちは物事に全身全霊で飛び込むことがをが難しいと考えてしまいます。
「とはいえ、お金ないしな…」
「とはいえ、会社を辞めるの大変だしな…」
と、「とはいえ」の呪縛にかかっているのが、多くの大人の典型です。
これって、「やりたい!」と思うことより、「とはいえ」の方が優っているから、行動できないわけですよね。
いや、違うんですよ、本当は。「やりたい!」>「とはいえ」が本来の優先度なんです。
子どもの頃は大人から怒られるリスクをかえりみず、「やりたい!」をたくさんやって、大人に怒られたりしましたよね(笑)。
いつしか、「やりたい!」>「とはいえ」が逆転して、「やりたい!<とはいえ」になってしまっているのが、つまらない大人の末路。てか、ほとんどの大人がそうですよね。かくいう僕も。
もう一度、このやりたい!ととはいえ、を天秤に掛け直して見てはいかがでしょう。
僕たちは、死という絶対的なリスクを背負った人生を送っています。「とはいえ」で守れるものなんて大したことないんですよ、どうせ。
生きていれば、誰でも絶対的なリスクにまみれているわけです。
だったらとことん取ってやろうじゃないですか。「リスク」ってやつを。
大した命じゃないんだ燃え尽きるまでやれ!(うちの家訓)
この安い命っぷりが努力の秘訣.— 落合陽一/Dr.YoichiOchiai (@ochyai) 2014年3月29日
余談ですが、今、話題の落合陽一さんの育った家庭の家訓は「大した命じゃないんだ、燃え尽きるまでやれ!」です(笑)。素敵すぎますね!
※アイキャッチ画像は、どこかで使いたい!と思っていれて見た写真です。なので本文とあんま関係ないっすw 撮影:スキーマ レオくん